RELEASED ALBUMS MEMBERS CHRONICLE


  P-MODEL MEMBERS〜2001年2月現在

平沢進(G,Vo,Syn,etc):79年2月(デビュー)→NOW!!
現在までの唯一のP-MODELオリジナルメンバー。所謂「リーダー」である。
幾多の困難も乗り越えつつ今年結成20年を迎えることができるこの長寿バンドは、彼の音楽表現に於いて、非常に重要なフィールドであったことを物語っている。彼の作風は現在まで一貫して独自性に満ちあふれ、他に類をみない世界観を構築している。近年におけるP-MODELへの多作体勢から見られるようにまだまだ表現の勢いは衰えることがなさそうだ。

>>2000年はソロ活動を展開。ミャンマーへ接近してアルバム『賢者のプロペラ』をリリース。CDとはバージョンの違うMP3盤もリリースしてインタラクティブライブも敢行。新世紀2001年は新たなる音楽的仲間INTELLIGENTSIAのMIRAIと共にライブを企画中との事。培養宣言を通過したP-MODELの行く末はどうなっていくのか、課題は山積みです(よね?)

田中靖美(Syn,Key,Org,P):79年2月(デビュー)→83年3月
マンドレイク(P-MODEL前身バンド)時代からブレインとして平沢と双璧を成していたP-MODEL初代キーボーディスト。アイデアやコンセプト等、初期P-MODELは彼無しでは成立しなかった部分が大きいと思われる。また平沢の良き理解者でもあり、平沢と共にセックスピストルズにも共鳴した。ステージに上がればキーボーディストとしては凄腕であり、パフォーマンスもよく心得ていた。現在も平沢は彼のコトを「天才」と評している。
彼の代表作には「ヘルスエンジェル」(1st『IN A MODEL ROOM』収録)、「ブループリント」(3rd『ポプリ』収録)等がある。

>>現在では音楽界からは引退し東京・恵比寿にて「OUIJA」という輸入雑貨店を営んでいる。

秋山勝彦(B,Vo,Key):一期79年2月(デビュー)→80年11月 二期91年9月(解凍)→93年10月(待機)
彼はマンドレイクのファンとして彼らのステージをよく見に来ていた。プログレバンド「阿鼻叫喚」というバンドのキーボードを担当していた彼だったが、平沢よりメンバーに誘われ弾けなかったベースを担当することになり、P-MODELオリジナルメンバー、初代ベーシストとしてデビュー。彼はとても好青年な顔立ちで当時から黄色い声が絶えなかった様だ(笑) しかし彼は受験生であった為にP-MODELを脱退。その後はインドへの放浪の旅も経験するなどした後に彼はバンド「ヒア・イズ・エデン」を結成。そして再びP-MODELが凍結後の平沢ソロバンドのベーシストとして参加する様になり、解凍P-MODELにもキーボーディストとして復帰した。
彼の代表作には自らヴォーカルも担当した「タッチ・ミー」(2nd『ランドセル』収録)、「BURNING BRAIN」(9th『big body』収録)等がある。

>>現在は「ヒア・イズ・エデン」解散後、「アフター・ザ・レイン」として活動中。

田井中貞利(Dr,Dr prog.):一期79年2月(デビュー)→84年12月 二期87年3月→88年12月(凍結)
彼もマンドレイク時代から平沢と共に活動してきたP-MODEL初代ドラマー。彼はサングラスがトレードマークで強面な存在であったが大人しいキャラクターとしてファンにもメンバー間にも人気が高かったようだ。ドラミングは勢いで突っ走るパワー派のドラマーで、正確なリズムはあまり得意としなかったようだが、迫力ある生ドラムは非常に重く、P-MODELサウンドに重厚感を与えていた。一時期脱退したが87年に再び「PART2」を名乗り復活。凍結まで担当。現在ではP-MODELのバーチャルドラマー「TAINACO」のモデルとしても知られ、20周年記念モデル「TAINACO-e」では実写撮影にも協力している。
彼が音源に残した楽曲は存在しなかったが、未収録としては「カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキー」という楽曲を唯一残している。

>>P-MODEL脱退後は一時期整体師をしていたようだが99年より東京・三軒茶屋にて「からくり屋」という玩具店を経営して、いたのだがそれも2000年に惜しまれつつ閉店。今度はネットワークにお店を構える方向だとか。

菊池達也(B):80年11月→84年8月
ベースの秋山が脱退したことにより、平沢が講師を務めていたシンセ教室の生徒でもあった菊地は当時高校2年生でP-MODELの2代目ベーシストとして迎えられることになる。細身で長身な彼は秋山人気を引き継ぎ黄色い声援を浴びることになった。ある意味一番データの少ないメンバーでもあるが、スターリンとの共演ステージに於いてパンクスの罵声に怒り、客席にベースを放り投げたというエピソードがあったりした。また「ふるへっへっへ」のプロモにて彼を間近に観ることができる。
彼による楽曲は存在しない。

>>脱退後は音楽活動から引退。現在では原宿にてレコード店「ROCKSHOP」を経営。との事です

三浦俊一(Key):83年3月→85年12月
2代目キーボーディスト。彼もP-MODELに参加したのは高校卒業直後。自宅録音型タイプとされた彼はレコーディングで活躍。コルグのPoly-sixを好んで多用した彼のサウンドカラーがそのまま当時のP-MODELにおけるサウンドカラーを決定付けた。
彼の手掛けた作品は少なく平沢との共作ナンバー「REM SLEEP」(6th『SCUBA』収録)そして横川、平沢との共作ナンバー「ダンス素凡夫」(7th『カルカドル』収録)を残している。

>>脱退後は有頂天、ソニックスカイなどを経由し現在ではシンセサイザーズ、デスコ、ヤング100Vで活動。サポートとしても活躍し、近年サポートしていたHz(惜しまれつつ解散)のステージで「フィッシュソング」のギターソロを披露していた一幕なんかが個人的には印象的。

横川理彦<現・横川タダヒコ>(B,Vo,etc):84年8月→85年12月
菊池の脱退を受けて当時関西テクノバンドの雄とされた4Dに在籍していた横川が3代目ベーシストとして加入。4Dのリーダーであり現在はP-MODELのメンバーでもある小西健司によると、当時突然P-MODELマネージャー氏から「横川を連れていく」との言葉と共に連れ去られたのだそうだ(笑)それほどの急な加入であったコトを伺わせるエピソードである。横川の加入はP-MODELにとっても新風であった。彼はベースの他にヴァイオリンをバンドに持ち込み、音源では「カルカドル」という曲で大きくフューチャーされ、ステージに於いても新しいアレンジのもと横川のヴァイオリンが大きく取り上げられた。まさにこれはマンドレイク時代以来のことでもあり、彼の参加したアルバム『カルカドル』は異色作にも位置する。
彼の代表作は「オール」(7th『カルカドル』収録)、平沢作詞による共作「パイパー」(7th『カルカドル』収録)等がある。

>>脱退後は89年より本格的なソロ活動を開始。今までに4枚のソロアルバムを発表し、近年は伊藤ヨタロウ率いるメトロファルスの中心メンバーとして活動していたが、99年に脱退。現在はソロ活動メインといったところでしょうか?

荒木康弘(Dr,Perc):85年1月→87年3月
元アレルギーのドラマーであった荒木は以前からP-MODELの大ファンであったらしく、田井中の脱退を受けP-MODELの2代目ドラマーとして迎えられた。それまでの田井中のパワー派とは違いリズム自体は軽くなった印象を受けるものの、正確なドラミングでそれまでの曲のリズムパターンも一新。横川と共にP-MODELに新風を吹き込んだ。しかしプライベートの事情によりやむなく脱退。
彼による楽曲は存在しない。

>>現在はソフトハウスのチームリーダーの傍らアマチュアバンドのドラマーとしても活動しているとのこと。

中野照夫<現・中野テルヲ>(B,Vo):86年1月→88年12月(凍結)
中野は自らデモテープを平沢の元へ送り、それを高く評価した平沢に見出され当初はスタッフとして従事。横川のスケジュール調整で臨時ベーシストとしてもステージに上がることがあったが、横川の脱退に合わせ正式に4代目ベーシストとしてデビュー。JAPANのミック・カーンに影響を受けたとされるベースは独特なグルーブを醸し出していた。
彼の代表作は「LICORICE LEAF」(8th『ワンパターン』収録)、「サンパリーツ」(7th『ワンパターン』収録)があるが、幻となったアルバム『モンスター』の収録予定曲だった「MONSTERS A GO GO」(ライブビデオ『三界の人体地図』収録)という佳曲も残している。→その後参加するロングバケーションでリメイク。

>>脱退後は有頂天を経由してきた三浦俊一と共にステレオスコープ(後のソニックスカイ)というグループを結成。続く90年からケラ、みのすけと共にロングバケーションで活動。現在活動休止中の傍らソロではMP3配信もP-MODEL以前にスタートさせている。特にココでしか聴けない『Let's go skysensor』は非常に格好良すぎな1曲でP-MODELの『音廃』が好きな人なら直撃を受けること請け合い。今年はロンバケで活動!?等と期待してる前に、中井敏文率いるテクノロックユニット「モノグラム」のメンバーに加入!

高橋芳一(Systems):86年1月→87年10月
高橋はROOMというバンドでベーシストをしていたが、P-MODELとの共演をきっかけに、3代目キーボーディストとして加入。しかしプレイヤーというよりもエンジニア指向の強かった彼はレコーディングにて活躍、彼参加後のアルバム9th『ワンパターン』では大幅な打ち込みサウンドが導入され、クレジット上もエレクトロニクス全般という意味での「Systems」という表記になった。
彼が音原に残した楽曲は存在しないが幻となったアルバム『モンスター』では彼の楽曲が3曲程採用される予定でライブでも披露していたとのこと。

>>脱退後は主だった音楽活動はないが、その後中野テルヲが使用することになる、Under Techno System(UTS)なる楽器群を設計、製作し、中野のステージにもサポートで出演している。ちなみに中野さんは次回4月のモノグラムのライブにてUTSを使用すると見込まれるので、其処で動きが!?

ことぶき光(Key):87年10月→93年10月(待機)
高橋に続くキーボードプレイヤーとしてP-MODELに加入したことぶき光は、この後平沢ソロも手伝う等、平沢の片腕として活躍する重要なメンバーとなった。凍結までは主にプレイヤーとしての活動であったが、91年の解凍後は平沢との合作を編曲するなど中心的役割を果たし、またステージに於いてもキーボード配列を前代未聞なドーム上に配置するなど強烈なインパクトを残した。
彼の代表作は平沢との合作「2D OR NOT 2D」(8th『P-MODEL』収録)、「幼形成熟BOX」(9th『big body』)等がある。

>>現在は、エコーユナイトの少年マルタ、メトロファルスのライオン・メリーとのバンド「プノンペンモデル」で活動中。ちなみにこのバンド、元々はP-MODELコピーバンドコンテストに出場するシャレで結成されたのだが、現在では欧州ツアーも成功させるなど独自色で現在も展開中。

藤井ヤスチカ(Dr):91年9月(解凍)→93年10月(待機)
THE GROOVERSのドラマーである藤井は、以前よりアルバムプロデュースを平沢が担当したことや所属事務所も同じくした繋がりから、GROOVERSと平行して解凍P-MODELのドラマーとして加入。解凍P-MODELではシンセドラムであった為、初めて使う藤井は慣れるまでに苦労したようだが、本来骨太なサウンドを叩いているのとは対照的にテクノなリズムもしっかりと板についていた。
彼による楽曲は存在しない。

>>解凍P-MODEL活動期間2年を予定通り終えた藤井は、現在もそのままTHE GROOVERSのドラマーとして活動中。P-MODEL改訂後ちょっと太った??

上領亘(Algorythm):94年12月(改訂)→97年3月
元グラスバレーのドラマーであり、ソフトバレエ等を始め数々のサポートドラマーとして活躍してきた上領は平沢のソフトバレエ共演をきっかけに平沢ソロのサポートを経て、改訂P-MODELのAlgorythm(ドラムス)として加入。上領の要塞のようなドラムセットからは正確でタイトなリズムが刻まれ、打ち込みサウンドと生ドラムの見事なまでの融合が感じられた。またその妖艶なルックスからは平沢をも「男惚れする」と言わしめるなど、女性ファンも多く存在した。
彼の楽曲は存在していないが、ドラムス系雑誌のインタビューではP-MODELでの楽曲提供を漂わせていただけに、その後の脱退が残念であった。

>>ソロ活動に専念するため脱退した上領はその後コンスタントに今まで3枚のアルバムを発表し、引き続きサポートなどをこなしつつ活動中。TMレボリューションのサポートまでやってるみたいで、驚き(笑)

福間創(System1):94年12月(改訂)→2000年12月?!(詳細不明)
改訂P-MODELのメンバー選定が難航するなか、先にメンバーが決定していた小西健司とインターネット上のチャットで知り合い、「ナンパ」され加入するというエピソードがあまりにも有名な(笑)P-MODELのシステム1。彼のキャラクターは今までのP-MODELにも当てはまらなかったと思われる「現代っ子」を感じさせる
平沢の「秘蔵っ子」であり、歳は平沢と16も離れている。近年は彼の楽曲も採用され始め、平沢が敢えて使用しない「流行系」の機材を持ち込み、曲に反映させた功績は大きい。
彼の代表作はシングルカットされた「ASHURA CLOCK」(11th『電子悲劇/~ENOLA』収録)や、「衛星ALONE」(11th『電子悲劇/~ENOLA』収録)など。

>>去年の2000年は平沢進のソロツアーにも参加せずに主だっての音楽的な活動が無かった福間さん。今年1月のヤプーズライブではゲストで登場したり、DJイベントに参加したりと、『培養宣言』経過後の動向が気になります。

小西健司(System2):94年12月(改訂)→2000年12月?!(詳細不明)
平沢との親交は深く、それはデビュー当時にまで遡る。そして幾多の共演も経て、平沢とは「不幸のプロジェクト」なるユニットでも活動していたが、93年のP-MODEL「待機」を受け、ネットワークが発達した活動基盤を前提に、P-MODEL参加の意志を表明。自身のユニット4Dも平行しつつ94年、改訂P-MODELにシステム2として参加する。平沢にとっても小西の加入はかつての田中靖美の存在に匹敵するほどの事であり、ブレインとして活動。それによってP-MODELは平沢主導からメンバー分散型ユニットへと移行しつつある。
彼の代表作は平沢との合作「夢見る力に」(10th『舟』収録)や、4Dのナンバー「アフターディナーパーティー」の変則アレンジともいうべき「HEAVEN2000」(12th『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』収録)等がある。

>>2000年は4Dの活動を再開させるとの意向!?との憶測も飛び交っていたけど、結局音楽的な動きは福間さん以上に見えてこなかった昨年。今年は同じく小西さんもどうなっていくのか。ただ個人的には平沢さんがそう簡単に小西さんをメンバー構想から外すとはとても思えません。

TAINACO(Algorythm):97年10月→→2000年12月?!(詳細不明)
上領が脱退し、新たなるメンバーは加入しないという事実上のトリオ形態のP-MODELとなったが、電脳化を促進していたP-MODELにとって、活動上相応しい表現形態として登場したのがバーチュアルドラマー「TAINACO」の存在であった。田井中貞利がモデルになっている彼(?)はステージ後方のスクリーンに投影され、実際はメンバーの操作によりグラフィカルにリズムを刻むのであるが、平沢曰くところ「正式メンバー」であるそうだ。バージョンも1から2へと発展し、99年4月に行われた平沢ソロライブに於いて再びバージョンアップが発表されているが、アルバムではクレジットされておらず(まあ・・当たり前でもあるが)今後の存在定義がどうなっていくのかは謎である。現在までの所、20周年限定モデルといういわく付きで99年のツアーで「TAINACO-e」(タイナコエンハンスド)が公開されている。ちなみにファンクラブオンリーのテレホンサービスでナレーションしているのが彼でもある。(←ということになっている)
彼の楽曲は存在していない。(当たり前)


P-MODERN