P-MODELは1979年に平沢進(G,Vo,Syn)、田中靖美(Key,Syn)、田井中貞利(Dr)がそれまで活動してきたプログレッシヴバンド「マンドレイク」を終了させ、新たに「マンドレイク」のファンであった「阿鼻叫喚」のキーボーディスト、秋山勝彦をベーシストととして迎え結成されたテクノポップバンドである。

当時世界同時多発的に生まれてきた機械的な演奏スタイル、サウンド、思想などを統括して、世間はその「ジャンル」に大いに迎合し、それを「テクポップ」という枠組みの中に押し込み一大ブームへと仕立て上げた。テクノポップの筆頭は当時大旋風を巻き起こしたYMOであるが、しかし実のところテクノブームとはその「大旋風」がゆえYMOブームを指すといった声が存在するのも事実であった。その当時のP-MODELは、すでに経験豊富なメジャーな境遇から生まれてきたYMOとは明らかに一線を画し、その他プラスチックス、ヒカシューといった「インディペンデント」として生まれてきたバンド達と結果的に肌を同じくしていた流れから、業界から「テクノ御三家」という枠組みに押し込まれることになる。
彼らは「ニューウェーブ」という波に乗り、マンドレイクではとても及ばなかった世間の表舞台へと一気にかけ登った。デビューライブは下北沢ロフトにて東京ロッカーズの面々と行い、いきなりのトリを務め大成功を納めた結果、8社ものレコード会社と交渉。最終的にワーナーパイオニアの洋楽部門からデビューする。
1979年7月にシングル
『美術館であった人だろ/サンシャインシティー』でデビューした後は、いきなりXTC、ヴァン・ヘイレン等、大物の来日ツアーの前座を務め日本武道館などの大舞台を経験。ブラウン管ではNHK等のテクノ特集番組にも出演。公共放送に相応しくない(?!)奇抜なステージング(主に平沢)を披露し勢いづく。

現在では大物プロデューサーであり、当時テクノ御三家、プラスチックスのメンバーでもあった佐久間正英にとっても初プロデュース作品となったのがP-MODELの1stアルバム『IN A MODEL ROOM』である。しかしやはり独立志向の強い集団であるP-MODELは2ndアルバム『LANDSALE』からは早くもセルフプロデュースへと移行していく。この1st&2ndは半年間という短いインターバルでリリースされ、当時の時代の流れとリンクした結果『LANDSALE』はオリコンチャートにもランクするヒット作になった。

1980年11月には元々大学の受験生でもあった秋山勝彦が学業優先という理由からP-MODELを脱退。ここからP-MODELの入れ替わりが激しいメンバー変遷がスタートすると共に、メンバー変遷だけではなくレコード会社との表現に於ける折り合いの悪さ、ジレンマによってリリース先も転々としていくのである。いわゆるP-MODELはこの時期から現在まで、一貫して自分たちの表現手段を追求し、実際に行動として示しているバンドでもある。
3rdアルバム
『potpourri(ポプリ)』では平沢と田中がベースを兼任する形で3人で作業が進められた。またこの時期からバンドは既に「テクノポップ」からの脱却を計る曲調、スタイルを取り入れていく。そう、P-MODELはこの社会現象とまで云われたブーム共々闇に葬り去られることから一早く脱却したかったのだ。先の見えたブームを引きずることにメンバーは何の未練もなく、独自の音楽スタイルの確立に精を注ぐ。しかしそこではP-MODELのファン層も1st&2ndによる初期ファンと3rd以降の中期ファンによる分断が派生した。その分断を招いた方向性とは「分かり易いスタイル」であった初期とはうってかわって「内面的、内向的」な精神世界をも巻き込んだ一般にはなかなか認知されにくい、いわゆる「アヴァンギャルド」な世界へと傾倒していくことにあった。4thアルバム『PERSPECTIVE』、5thアルバム『ANOTHER GAME』と、音もそれに呼応するがの如く、更に重く深く進化していく。ちなみに初期P-MODELファンとして知られるのがサンプラザ中野で、中期からのP-MODELをフェイバリットに掲げている人物にケラがいる。この間にメンバーはベーシストとして当時高校生だった菊池達也が加入。平沢とバンド内では双璧をなしていたキーボーディスト田中靖美もバンドを去り、高校卒業後間もなかった三浦俊一が加入。そしてこの時点でP-MODELは平沢本人の指向とは裏腹に完全なる平沢進主導型のバンドへと変化していくのであった。

いわゆる「マニアック」さを好む男性ファンが8割を占めたともいわれる深く重い中期は『ANOTHER GAME』によって臨界点に達し、その後のP-MODELは一転してポップな作品を提示する。平沢進と三浦俊一の2人で制作された(殆どが平沢個人で制作)アルバム『スキューバ』は当時80年代ニューウェーブの味方(笑)であった宝島社のJICC出版よりカセットブックという形態でリリースされ、この頃の平沢のテーマでもあったユング心理学にアプローチ。P-MODELの一貫した存在コンセプトとも云える「キミとボクとのコミュニケーション」が再び大きく提示されたのもこの時期であると推測する。
次作
『カルカドル』では新メンバーとして関西テクノ界の雄とされる4Dの横川理彦(現タダヒコ)がベーシスト、パンクバンド元アレルギーの荒木康弘がドラマーで参加。特に横川加入により彼の音楽性が加味され、ヴァイオリンやリコーダー等、それまでに無かった音色やリズムが付随し「民族色」ともいうべき新しいカラーで楽曲が着彩されているのが興味深い。しかし変化に富むP-MODELはその後横川理彦、三浦俊一が脱退。続く作品『ワンパターン』ではそれまでスタッフとして関わっていた中野照夫(現テルヲ)がベーシストに、ルームというバンドのベーシストだった高橋芳一がキーボーディスト(クレジット上はSYSTEM)として参加した。そうP-MODELはそれぞれのパートに関して決してプロフェッショナルを加えているというわけでも無く、あくまでフィーリングによる部分が大きかった部分があるようだ。この『ワンパターン』ではエンジニア指向であった高橋がレコーディングで活躍し、それまでのP-MODELの中でも一番打ち込み頻度の高い作品となった。実際に生ドラム一発録りはアルバム中一曲だけである。

この作品リリース後は時期がずれつつも高橋芳一、荒木康弘が脱退し、代わりにその後の平沢の片腕へと成長することぶき光がキーボーディスト、オリジナルメンバーの田井中貞利が再びドラマーとして復帰する。そしてこのメンバーによるアルバム『モンスター』が制作される手筈であったのが、収録曲も出揃いつつあるにも関わらずアルバムは諸事情による発売中止。よって当時のライブ演奏されたものの音源として日の目を見ていない楽曲が数曲存在している。
そしてP-MODELというバンドをコントロールしていく方向性を見失った平沢進は88年暮れの渋谷クラブクアトロのステージに於いて突然『活動凍結』を宣言し、P-MODELは無期限コールドスリープ状態に入る。これによって
平沢進は、それまでの作風にも片鱗を漂わせていた「大陸的」な旋律にヒューマニティ溢れるアコースティック的質感を全面に打ち出した新たな表現によるソロ活動を開始。ことぶき光は個人バンド「バリケフホニウム」の他平沢進のサポートに回り、中野照夫はP-MODEL脱退後有頂天を経由した三浦俊一と共に「SONIC SKY」を結成。田井中貞利は引退と、別々の道を歩み始める。

平沢進のソロ1st『時空の水』、2nd『サイエンスの幽霊』に於いて新たなるフィールドを開拓した彼はツアーに於いてもかつての盟友秋山勝彦や、新たなる人脈でドラマー友田真吾や戸川純、後に電気グルーヴに加入する砂原良徳をサポートに加え展開していくが、90年代に入り彼が自分自身の表現道具としてのコンピューターと出逢いに行き着く。そしてテクノポップという言葉が色褪せテクノそのものがまったく違う音楽へと進化している現状から再びテクノポップ回帰への情熱が高まることにより、彼は本来の姿であったテクノポップブランド「P-MODEL」を再び立ち上げることを決意する。

91年9月、日比谷野外音楽堂にてP-MODELは「解凍」する。聴衆の前に姿を現した、平沢進(G,Vo)、秋山勝彦(Key)、ことぶき光(Key)、そしてTHE GROOVERSのドラマーでもあり平行して活動する事になる藤井ヤスチカ(Dr)からなる新生P-MODELは凍結前のライブバンドから大きく進化して自他共に認める打ち込みテクノポップユニットとしての活動を再開する。6年ぶりにリリースされた8thアルバム『P-MODEL』では「説明の要らないテクノポップ」をキーワードに、作曲する平沢、ことぶき、秋山がそれぞれの楽曲を編曲までコントロールするなど完全独自生産性でアルバムが形成される。(実際にアルバムには各メンバーパートの表記すら無く、限りなくユニット色に近いものであった)続く93年リリースの9thアルバム『BIG BODY』も同メンバーによる制作であるが、同メンバーで連作が作られたのは1st&2nd以来の事でもあった。前作を踏まえつつも同メンバーで2枚目となる本作の完成度は更に増し、「解凍P-MODEL」が目指したテクノポップの完成形がここに提示される。そしてこのメンバーで、NHKの音楽番組「ポップジャム」の出演も果たしお茶の間に「正常」な演奏を披露するが、最後の最後でことぶき光が当時の平沢に及ばないまでもお株を奪う。

93年10月、「BIG BODY TOUR」でファンに告知されていた宣言に基づき、日比谷野外音楽堂にて解凍P-MODELは当初から計画されていた活動期間の2年(ということだった)を終えて同メンバーによるラストライブを行う。この場で平沢進はこの後メンバー3人の総入れ替えを行う「改訂」を発表し、向こう1年間の「待機」を宣言する。平沢進は再びソロへ、ことぶき光はもともとP-MODELのコピーバンドとしてスタートした「プノンペンモデル」を本格始動。秋山勝彦は泉水敏郎と組んだ新生「ヒア・イズ・エデン」に、藤井ヤスチカは母体である「THE GROOVERS」へとそれぞれ活動の場を移す。

この「待機」期間中、平沢進はソロ活動に於けるライブで新しい表現手段としてコンピューターを利用した観客との双方向対話システム、「インタラクティブライブ」を発案、導入し、コンピューター業界へのアピールと共に新たなるファン層を獲得。また自身によるインディーズレーベル「DIW/SHUN」を立ち上げ、P-MODELのライブ音源を始め、結成前デモ音源、元メンバー関連音源等をコンスタントにリリースする。一方秘密裏に進められた改訂P-MODELのメンバー選定は、あと残り一名を残すところで平沢がメンバー構想に入れていたとされる、当時平沢ソロでキーボードを手伝っていた「TAKA」が自身の意向により参加を辞退し、難航する。

94年12月 大阪難波ウォーホルにて改訂P-MODELが予定より約2ヶ月遅れで初ステージ。開演までメンバーは明かされず、出囃子でスクリーンに投影されるというドラマティックな演出によりメンバーが公開される。メンバーは平沢進(Syn,Vo,Gui)、デビュー当時から平沢と親交のあった4Dのリーダー小西健司(System2)、そして小西とインターネット上で知り合いメンバーへと「ナンパ」された新人福間創(System1)、元グラスバレーで数々のバンドのサポートドラマーを務めた(平沢ソロも手伝っていた)上領亘(Algorythm)の4名。ハンマービートを好む小西に生ドラムに回帰した上領のドラムが絡み、アレンジも硬質でよりタイトに。
ちなみにワタシが実際にライブを経験するのはこのメンバーからであるが、非常に身震いしたのを憶えている。

95年、改訂P-MODELによる新作がリリースされる前に「DIW/SHUN」レーベルからは新作のリミックスアルバムを先にリリースするなど新メンバーになろうとも風変わりさは健在。そして改訂後約1年を経て10thアルバム、『舟』をリリース。アジアンテイストの強さも反映されたこのアルバムは生ドラムも絡んだ印象から『カルカドル』の音世界も連想されるなど、近年のP-MODELの作品としては異色作となった。そしてこのアルバムからP-MODELは積極的な電脳世界(インターネット)への接近を試み、特に歌詞にも分かり易く反映されたことで「ポップ」になったとの論評も聞かれた。まさにコミュニケーションテーマ「キミとボク」が舞台を電脳世界へ移す門出となったアルバムであり、前後してP-MODELオフィシャルサイトや各メンバーによる個人サイトも公開され始める。

96年はP-MODELの久々の全国ツアー「電子舟訪日行脚」を開催。ツアーと連動したインターネットオリエンテーリングも行い電脳世界への活動比率が高くなる。しかしこの年の暮れから平沢進は極度の疲労から静養生活に入りP-MODELの活動も約半年以上に渡って停止。この間に上領亘はソロ活動に専念する意向からP-MODELを脱退する。

97年、新たにトリオ編成としてP-MODELはスタート。マキシシングル2枚と11thアルバム『電子悲劇/~ENOLA』にまたがり、ひとつのストーリーをインターネットを介して展開させ、その物語自体は全国ツアーやファンクラブ企画によるタイツアーにまでに及ぶという、「1アルバム、1ツアー、1企画ツアー」なる図式を完成させる。ちなみにライブツアーではドラムパートとして初の試みと思われる、スクリーンに投影したバーチュアルドラマー「TAINACO」(モデルは初代ドラマーの田井中)をデビューさせ話題を呼ぶ。

そして99年に入りP-MODELはデビュー20周年を迎える。近年のインターネットコミュニケーションは高度な圧縮技術の進歩により高音質な音素材のやりとりさえも可能となり、P-MODELはその点に着目。このシステムを活用することでこれまで彼らにとって様々な障害にもなっていたレコード会社による介在を必要としない、まったく新しい音楽配信への可能性を感じ始め、遂には追求し始めた。結成20周年記念プロジェクト『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』と名付けられたこのプロジェクトの中でP-MODELはメジャーレコード会社との契約を終了させ、圧縮技術「MP3」による楽曲のファイル化。そして日本プロミュージシャンの中では初という触れ込みでインターネットによる音楽配信をスタートさせた。99年下半期は毎月のペースで計4作をリリース。現在廃盤になっている初期音源を新しいリスナーに届けるという意味合いも含めた、完全なる新録によるライブアルバム『ヴァーチュアルライブ』シリーズ3作と、12thアルバム『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』である。このリリースの間にもインターネット上ではミックスダウンの様子をリアルタイムで公開したり、アルバムのアウトテイクを「アンケートウェア」と題したアンケートによって楽曲を提供するなどの試みを展開。それまでは考えられなかった状況をこのプロジェクトでP-MODELは展開している。

2000年は3月より、「世界中のネットワークで繋がった人に協力を要請し、P-MODELの楽曲トリビュート作品を創作する」という破天荒な試み『GLOBAL TRIBUTE〜愚弄盗利』大作戦を展開。ファン/リスナーを大規模に動員して、かつ予定も大幅に押しながらの行く末に、幾曲ものトリビュート作品が完成した。その結果はココで聴くことができる。まさにネットワーク無くしては成り立たないコミュニケーションの在り方として提示したわけだが、見えないトコロの苦労も参加者はそれぞれの胸に秘める事ととなったプロジェクトだった。年度としてはP-MODEL自身の活動は無い年であった2000年、平沢進の自身のソロアルバム制作に代表されるようにメンバー個々の活動年であったが、福間創は姉である福間未紗のアルバムへの参加、小西健司も執筆活動と特に目立った活動は無いままに経過、そのまま20世紀の終わりにその計画は発表された。

『P-MODEL/培養』

P-MODELはファンクラブ会報『GREEN NERVE no7』誌面上冒頭に於いて、現行P-MODELにおける事実上の「解散」とも受け取れる「解体」を宣言、『培養』というキーワードで今後のP-MODELの行方を提示した。新しい可能性に着目し、常にそれを取り入れた環境で進化していくP-MODEL。期待と不安が両方存在する状況は、まだまだこれから進展していくに違いない。

2001/1 TEXT BY MACK

参考文献:
日本コロンビア『Day Scanner of Susumu Hirasawa』
ポリドール『P-MODEL/BITMAP』
立東社『KB SPECIAL/93年9月号』
ソフトバンクパブリッシング『音楽産業廃棄物P-MODEL OR DIE』


P-MODERN